堀内恒夫(ほりうち つねお)@悪太郎AA保管庫 †
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通称悪太郎。首の大きなほくろがトレードマーク。V9巨人のエースピッチャー。
1966年、ドラフト開始年にも関わらず明大OBの巨人・沢田幸夫スカウトとつるんで明大進学説を流し、
まんまと巨人1位指名を獲得。高卒入団即16勝ですっかり「甲府の小天狗」となり、数々の武勇伝を生む。
寮の門限を平気で破る図太い神経を持ち、そのため先輩の王貞治の鉄拳制裁を喰らった凄まじいエピソードもある。
ドロップボールと称される独特の大きなカーブを武器に通算203勝139敗6セーブの数字を記録した。
打撃センスもあり、通算21本塁打を記録している。
名言に、「野球をやるならピッチャーしかない。電車や飛行機は俺が乗らなくても動くが、野球は俺が投げなければ始まらない」というのがある。
引退後は解説者となり、一定の評価はあるものの「巨人寄り」の解説が多く、「アンチ巨人」の顰蹙を買うことがあった。
1993年に投手コーチに復帰、1997年にはヘッドコーチを務めるも同年限りで退任。
2003年に辞任した原辰徳と入れ替わる「晴天の霹靂」の形で巨人監督に電撃就任することになった。
不振が続いていた仁志敏久を再生するためにスタメンに抜擢し、正捕手だった阿部慎之助を一塁手に転向させて、
控え捕手だった小田幸平(巨人→中日→引退)を正捕手に抜擢した。
しかし、松井秀喜という大黒柱を失っていたチームを立て直すことはできず、2005年にはまさかまさかの5位と稀に見る巨人の成績不振*1の責任をとり辞任。
結局、今は同じ時期に監督を辞任した山本浩二と一緒にまたひっそりと日テレの解説者をしている。
2005年はチームの絶不調とは裏腹に2ちゃんねるの「堀内恒夫監督と共に苦難を乗り越えてゆくスレ」は大人気になり、一躍AAスレの人気キャラに。
監督時代には主力選手・清原和博と確執があった。
堀内と清原の確執の発端は堀内がヘッドコーチ時代*2にまで遡る。札幌丸山球場で雨の中全体練習を選手に命じたのに首脳陣が室内で弁当を食べていたため選手会長の川相昌弘が清原を伴い抗議を行い、
その際に堀内が川相に対して殴った*3ことから始まったとされる。
この事件は後年まで尾を引き、2004年オフには「契約があと1年残っていたにもかかわらず堀内監督が長嶋一茂*4を通して清原に構想外を通告し、これを受けた清原が球団事務所に乗り込んで直談判し、自身のトレード話を撤回させる」という出来事もあった。
高橋由伸が2019年に講演会で堀内はコーチ時代に選手に理不尽なことをしていたため、堀内は監督になってからも選手から人望がなく選手と意志疎通が出来てないかったと言っており、選手から造反を受けて結果を出せなかった悲劇の監督ではなく、かつての堀内の人柄にも問題があったとされている。*5
また西本聖は「堀内さんはコーチ時代に、投手が打たれたり四球を与えるとベンチからバカ、アホと試合中でも普通に投手を罵倒していた。キャンプ中に水野雄仁投手*6を殴打するなど横暴だったから慕う人が少ないのは当然」と言っている*7。
ただし現在では過去の振る舞いを顧みたのか、自身のブログで読者の質問やコメントに対して非常に丁寧な返信を行っており、ネットからの評価が高い。
彼の監督復帰を望む声はネット内では(アンチ巨人を中心に)意外と多い*8。
1966年セリーグ新人王。
山梨県甲府市出身。(甲府商高→巨人→引退→巨人コーチ→巨人コーチ→巨人監督)
AA集 †