88 原辰徳(はら たつのり)@ジャイアンツ愛AA保管庫

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通称永遠の若大将。読売ジャイアンツの第14/16代監督。

現役時代から天性の「叩かれキャラ」である。
父は東海大相模高〜東海大の監督の原貢で、スパルタ教育を受けた。
1980年代の巨人唯一の右の長距離打者、12年連続20本塁打は清原和博に次いで2位。
同時に当時巨人監督だった王貞治から「四番サード」として抜擢されたことは有名だった。
ONには及ばないものの個人を殺し常勝チームの4番の責務を果たしてきた選手であるが
引退時を除き凡退時のポップフライばかりを取り上げられてきた。
どんでん江川卓とは、大学時代の日本代表からの親友でもある。
中畑清とは「サード」のポジションをめぐって競争したことも忘れてはならない。

1999年次期監督候補として総合コーチ(のちヘッドコーチ)に就任、指導者としてのキャリアをスタート。
鈴木尚広などを発掘し2000年の優勝をサポートし、2002年に「ジャイアンツ愛」を掲げ監督就任すると日本一に輝く。
就任2年目は投手陣が壊滅して3位に転落し、盟友のヘッド・コーチの鹿取義隆が辞任したことがきっかけで、
大型打線の補強を推進する渡邊恒雄前オーナーと三山秀昭代表に振り回された結果、吉村禎章らコーチ陣と辞表を叩きつける。
次代監督堀内恒夫も振り回されて引責辞任させられ、安直に監督を交替して成り手がいない巨人の監督を再度引き受けることになった。

監督としての評価も復帰した2006年、快調なスタートを切るが大型連敗を喫した「捨てシーズン」から
何故か「史上最悪の野球監督」といった評価である。
最近カネになっている星野仙一落合博満の師弟コンビや野村克也を持ち上げる都合もあるのかもしれない。

2007年には下位予想の声も多かった中混戦のセ・リーグを制するがクライマックスシリーズでスタミナ切れ。
翌年は巨大戦力を率い所謂「メークレジェンド」を達成、連覇したものの日本一は奪回できず。
スローガンを「維新」とし再出発。

監督復帰後の特徴としてはフロントが体制一新したこともあるが嘘のように強調路線をとっている。
大型補強のプレッシャーを受け入れ、その影で着実にチームスタイルの改善や選手の質を向上させた。
巨大戦力と順位が一致したことは彼の手腕によるところも大きいのだろう 。

2009年には、恩師の王監督により今までの手腕を買われWBC日本代表の監督に就任。見事日本を世界一へ導いた。
チーム内では1軍半の選手で、偏愛した亀井義行の選出は周囲を大いに驚かせた。
また、高校〜大学時代からのチームメイトの津末英明(熊本県出身)は親友で、
阪神の監督・真弓明信は同郷の先輩にあたる。

福岡県大牟田市生まれ、神奈川県相模原市出身。
(東海大相模高→東海大→巨人→引退→巨人野手総合コーチ→巨人ヘッドコーチ→巨人監督→巨人監督)
公式プロフィール
HARA Spirit −原辰徳オフィシャルサイト−

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