,,,,,,,,,,,, ,.r‐''":::::_:::`:ヽ、 /::::::::::::::::((_::::::::::::::::、 !:::::::::::::::::::::__))h:::::::::::i !::::::::::::::::::_,,、-'''''' ̄ ̄`'ヽ |ミシ ̄━━i,,〜,,i━━!'''" . . /~|:::::::: ,(● )、 (● ) .| |9|:::::::: ⌒´,i |`⌒ i ヽ|:::::::::::ヽ f ・ ・)、/ i |\ヽ .| / ◎ .| / ,; -‐i \ヽ゛| ..|_ノ/\ / ヽ \  ̄ ̄ ̄// (⌒) ヽ |  ̄ ̄.|/ ノ ~.レ-r┐  ̄\ . \|\ ..| ノ__ | | ト、 ヽ. \ | ( ̄ `-L人_レ′ | . |  ̄ ̄`ー--‐′
通称ワン公。かつての巨人の超スーパースター。
高校時代は早実のエース兼外野手として、関東に初めて選抜優勝旗をもたらし人気を集めた。
プロ入り後は野手に転向。当時の川上哲治監督は榎本喜八を育てた荒川博の手腕に王の指導を託し、
グリップの不安定さを修正するために、後の王の代名詞となる「一本足打法」が完成する。その後は長嶋茂雄との
ON砲でV9に貢献。通算本塁打868本の世界記録を残し「世界の王」と呼ばれた。
また、寮の門限破りの常習犯で「悪太郎」の異名を持ったルーキーの堀内恒夫に「鉄拳制裁」を喰らわしたエピソードは有名である。
1980年オフに現役引退後は故・藤田元司監督を補佐する助監督に就任する。
1984年に藤田から監督をバトンタッチされるとPL学園の吉村禎章に「テレフォンラブコール」で獲得するなど意欲的な行動を見せた。
しかし、その反面頑固で面子にこだわり信念を変えないことから、「長嶋派」の中畑清から問題発言のいわゆる「ワン公事件」を発生させた。
同時に、現役時代の原辰徳に対して「.284、40本塁打、190打点」を目標とする課題を出し、「4番サード」に大抜擢した。
そのため、スランプに陥った原の成果が芳しくないことで、野次った兎ファンが「原をスタメンから外せ!」というブーイングに全く屈せずに、
かえって寵愛している原をかばい続け、面子のためか毎シーズンごとに「4番サード」のまま出場させる頑固な面も見せた。
さらに、現役時代の鹿取義隆をほぼ毎晩ごとに登板させた「ピッチャー鹿取!」の名台詞も球史において有名なエピソードである。
「自分と同じようにヒットやホームランを打てない選手が理解できない」という考えに固定したため、かえってチームが低迷させてしまった。
1987年に確執があった江川卓の引退会見に同席した時も、彼から嫌われてしまうなどの不幸を背負った。
翌年も成績が芳しくなく、ワンマンオーナーの渡邊恒雄と衝突し、解任に等しい形で監督を辞任した。
親交があった故・根本陸夫の要請で、巨人に訣別する形で彼の後を受けてダイエー監督に就任。
しかし、就任時から早々鷹ファンから生卵をぶつけられるなどの辛苦を味わいながらも、積極的な補強でチームを強化させた。
1999年に福岡移転後のホークスを初優勝させてからは通算で優勝3回、日本一2回を達成。
だがその後は選手の質に恵まれているにもかかわらず、5年続けて優勝を逃してしまった。
2006年は球界の大御所の一人であることからWBCの初代日本代表監督を務め、日本を初代優勝国に導いた。
2008年オフに秋山幸二に監督のバトンを渡し辞任。最高顧問兼GM兼取締役に就任した。
翌年はWBC日本代表特別顧問として監督に就任した愛弟子の原を影でアシストし、自身に続き優勝に導かせた。
現在でも、偏愛している弟子の原の身を案じている。
だが、そのことを野村克也や星野仙一ら一部から顰蹙を買ったともいわれる。
東京都墨田区出身。(早稲田実高→巨人→引退→巨人コーチ→巨人監督→福岡ダイエー/福岡ソフトバンク監督→福岡ソフトバンク球団会長)
→王語録 : nikkansports.com